私たちは常に選択している。人生という旅路の中で。
- orange0909
- 2024年3月30日
- 読了時間: 12分
更新日:2024年4月16日
こちら、ドイツはイースターホリデーに入りました。
✞復活祭🐥🐰
十字架にかけられたキリストが、3日後に復活した日を記念する日なので、キリスト教国では、一年で一番大事な日とも捉えられています。
基本的に「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」に祝われるというシステムのため、毎年日時が変わるというののと、ローマ・カトリック、プロテスタントの流れの西方教会と、東方教会では日付の算定方法が違うので、キリスト教徒でない私のようなものは、なんとなく、スーパーにウサギのチョコ🐇が並びはじめ、気づいたらそれが半額になっていて(笑)
あ、イースターの週末!店が閉まる、やばい!!
・・・という感覚の祝日ではあるのですが・・・
ドイツでは、日曜日や祝日はスーパーなどのお店は閉まるので、連休前は買い出ししないと、家に食べ物がないという、恐ろしい事態に・・・(笑)
日本のようなコンビニはないので、これは結構不便な習慣ではあるんですが。
とはいえ、ベルリン市内にはトルコ人の方などが営業している、キオスク(小さな何でも屋さん)は開いていたりするのと、飲食店はオープンしているので、飢えることはさすがにないのですが、田舎に出かけられる方は、少し注意が必要かもしれません。
子どもが小さい頃には、卵に色付けして飾ったり、前夜にイースターバニーのために人参を準備したり、朝になると家中に卵がかくされている、という、クリスマスイブみたいなイベント「お手伝い」をしたり、特別な朝食を準備したりもしていましたが・・・🐰🥚
時が過ぎるのは早いですね。

西方教会の流れのドイツでは、今年は3月31日が復活祭。
その前後の週が、学校の春休みになるので、仕事を休める大人たちは、子ども連れでホリデーに出かけていく時期でもあります。
先日、日本語の補習校の卒業式を終えた娘、小学生から高校生まで、週一回とはいえ、金曜の夜に現地校の後に11年通い続けた学校とのお別れは、一つの大きな区切りではありました。
クラスメイトは赤ちゃんの頃からベビークラスに通っていた子もいるので・・・
卒業式は先生たちも涙😢、卒業生も涙😢、日本らしい、情緒ある素敵な式です。
ドイツの学校は、さすがに高校卒業時は大きなプロム(卒業生が正装してダンス💃するという伝統)のようなセレモニーがあるのですが、それ以外は学年ごとの修了式とかそういうのも特になく、ぬるっと・・・
夏休み明けに気づくと学年が変わっていく、というシステムなので、日本人の式慣れした私には、ちょっと物足りないというか、区切りがいまいち分からなくて、ちょっと寂しい気もするのです・・・
そんな卒業式の日、娘の親友が式に参列してくれるというので、小学生の頃から知っている彼女と、会場へ行くため一緒に電車に乗りました。
ベルリンの地下鉄🚃・・・週末の朝は、あんまり乗りたくない路線というのがあるので、本当は乗り換えがあっても、静かなラインを選びたかったのですが、時間のこともあるので最寄り駅から「U8」というラインに。
この「U8」というライン、便利な線ではあるんですが、通過する駅がいわくつき😅な場所が多く、平日でもまあまあ、カオスではあるんですが、週末の夜や朝は、かなり👾
これぞ、ベルリン、という光景があちこちで繰り広げられる、舞台装置のような路線。
ベルリンらしさを味わってみたい方にはおススメです。
とりあえず、車両に乗り込み座席は確保。
日本の人ならば、新聞紙を敷かないと座りたくないような、謎のシミ💧がついていたり、黒ずんだシートの生地😅なんていうのは、とっくに慣れてしまいましたが、
座るときは色んな邪念を振り払って、無の境地で挑みます。
そしてこの日の朝の車両の状況はというと・・・🚃
まずは隣の車両から聞こえる怒声。車いすの若い男性が、外国語で延々と怒鳴り散らしてしている声がこちらまで響いてきます。
それから、仕事がなくて生活に困っているので小銭をくださいと演説をしながら、プラスチックボトルなどが大量に入った袋(空き瓶などは換金できます)を担いだ若者や、老人、女性、様々な人々が、小銭を入れるための紙コップを片手に、5分おきくらいに前を通過し、
(かつては電車に乗る前に小銭をポケットに入れて準備していた事もありましたが、いつしかそれも「いつもの風景」としてなじんでしまった心に、チクリ、と感じる瞬間でもあります・・・😿)
隣の座席の人のイヤホンから漏れ出る大音量の音楽が会話を遮り、
端の席の男性はそれに負けない大声で携帯電話で会話をしている・・・
こんな朝のベルリンの電車の光景の中にまぎれ、
ああ、ここはベルリンなんだなあと、感慨深さに包まれるひととき。
これは、隣に座る娘の友人と、小学生の頃から、なんども補習校からの帰宅時に見た光景。
彼女もお母さんが日本人なので、日本とベルリンの違いがよく分かっていて、
苦笑いしながら
「この間日本に帰った時、日本の電車が本当に静かで、綺麗で、居心地よかったのを思い出しちゃう」
と。
もし、私たちが別の静かなラインを選んでいたら、こんなカオスを体験せず、もっと落ち着いた雰囲気の車内で、昔話に花を咲かせながら目的地までたどり着けたのかもしれません。
でも、これはちょっと大げさに言うなら、
人の人生の選択みたいな事なんだなって、思ってみたり。
目的地は同じ。
そこに、どういう道筋を選んで行くのかは、自分次第、という事。
スピリチュアルの世界でいうパラレルワールド、並行現実とか並行宇宙などともよばれますが、いやもはや、量子力学の世界でも「パラレルワールド」は、理論的には存在の可能性があると言われてますし、こういった概念が認識されつつありますが、
私たちが現実と思って生きているこの「ライン」と、並行する、別の現実世界が複数存在している。
そして、この並行現実というのは、ほとんどが微妙に違っているだけだったりもするので、人は無意識にこのラインを乗り換えしていることに、気づいていない・・・
これはまさに、地下鉄の乗り換えみたいな。
次元を移行するのは、地下鉄の乗り換え、この例えは結構しっくりくる気がするのですが、いかがでしょうか。
もし、この日私が、別のラインで目的地に向かっていたら、隣の車両で叫んでいた彼は私の現実には存在しない人、出会うことのなかった人だし、こんなカオスな状況の中で、娘の友達と苦笑いしながら会話をすることもなかったはずです。
両方の現実は確かに、ベルリンの、世界のどこかでは存在しているけれど、
U8を選ばなければ、私はその場所で、そのカオス体験をすることなく、
他の現実を・・・
静かな車両に落ち着いて座って、窓の外を眺めながら、娘の友達と、過去の思い出話に花を咲かせながら、目的地へ着く・・・
という現実を体験していたかもしれないんですよね。
しかも、他にもバスやタクシーや、自転車で目的地へ行くという選択肢もあるわけですから、それだけの数の、体験したかもしれない現実は、可能性としては多数存在していたわけです。
電車で例えるならばほんの数十分の出来事ですが、
これを人生という旅路に例えたなら、人生のゴールへ向かう道すがら、どんな体験をするのかは、あなたの選択次第とも言えます。
そしてゴールは同じでも、その過程で体験したことは、少なからず私たちには影響を及ぼしてはいて・・・
選択によっては、別の結果をもたらす可能性もあるわけです。
(よくあるラブロマンスの偶然の出会いとか?💕)
私の人生にはそういう道中の運命的な出会いというのはありませんでしたが(笑)
私もかつて、自分の未来を冷静に見つめてみた時、
ああ、このまま進むと、こういう未来が自分には訪れるのだろう(-_-;)、という事を、リアルに想像📺できた時があって、
それは自分が望む未来図ではないことを、はっきりと自覚できたので・・・
違う未来を選択するための決断をした事がありました。
この場合は、路線を変えるのではなく、目的地を変える、という事になりますが・・・
私が実現させたくなかった未来図というのは、親が私の為を思って準備してくれた、一般的に言うところの、「まっとうな」人生設計図でした。
大学卒業後は実家に戻り、それなりの会社に就職して、お見合い結婚して、家庭に入って、平穏な日常を築く。
親として想像できる、娘の為の最高の選択肢だったんだと思います。
でも、私の魂は、別の生き方を望んでいました。
あんな「まっとう」な親から、どうしてこんな変わり者の娘が生まれてしまったのか、
両親も頭を悩ませたと思いますが、
その両親を喜ばせられない私も、そんな自分に対して自己肯定感の低さを、ずっと抱えてはいました。
子どもは往々にして、無意識のうちに
親を喜ばすこと=正しい
そんな風に自分をコントロールして生きる事を学んでいくものです。
その呪縛から逃れられない生き方を、ずっと選択してしまう人も沢山います。
大人になっても「周囲の思う正しさ」に自分を合わせてしまう癖がある、
それは、無意識の世界での束縛だから
大人になっても気づけないでいる。
そして、本当の自分の喜びからは、随分と遠ざかっていたことに・・・
ある日、気づくときが来る。
「自分は、何のために生きているのか」と。
私の場合は、両親がかなり厳しいルールを敷いてくれていたことと、
私が余りにもそのルールにそぐわない性質だったという極端な差異があったからこそ、
「私は両親を喜ばすことが絶対にできない子どもなんだ」
という、あきらめと、ある種の覚悟みたいな強い思いを育てる土壌があって、
だから、「違う未来を生きる」という選択に踏み切るだけのエネルギーがあったのかもしれません。
両親や他の誰かに「まっとうな」生き方だと評価されなくても、
たとえ路上で野垂れ死んでも(大げさですが・・・)
自分のハートが「生きている」という感覚を得られる道を歩いてみたかった。
究極のエゴイストだという事も分かっていたけれど、
「親にこうしろと言われたから」という後悔や、誰かに不満を持って生き続けるくらいなら、岸壁からダイブした方がましだと思うくらい、私の意志は固かったんですね・・・
そうして私は、大学の卒業式の日、アパートに置手紙を残して
家出しました🛫
それは無意識に、ほんの少しだけ今の現実と違っている別次元へと移動するのではなく、
完全に、違う結果を導くための、意識的な選択でした。
それは電車の路線を変えて、別のルートを選択して目的地へ向かうのではなく、
目的地そのものを変えるため、走っている電車から飛び降りて、反対側を走る電車に飛び乗るくらいの、
私にとっては命懸けの大きな決断でした。
(おおげさですが😅色んな意味で、死を意識する体験ではありました)
その時は、本当に沢山のハードルがあったし、選んだ道は順風満杯というわけではなかったけれど、
両親にも沢山、心配や迷惑をかけてしまったけれど・・・
それでも、自分の人生に悔いなし、と言える選択をしたと、
今でもあの時の決断を、自分だけは100パーセント肯定しています。
誰のせいでもなく、起こる事すべては自分の責任。
自分の選択によって未来を創る。
できるかどうかは分からなくても、
チャレンジしなければ一生後悔する事だけは、分かっていました。
私はこの人生で、自分の可能性を、ただ試したかっただけ。
どれだけ人生を深く味わえるのか
どれだけ自由に飛べるのか
どれだけ、自分らしく生きられるのか。
自分のゴールが、未来図がある程度クリアになっていて、
そこに向かう道筋にいるんだと意識できていれば、
たとえどんな乗り物を選ぼうとも
望んだゴールにたどり着く事はできるでしょう。
でももし、自分の進む道に不確かさや迷い、望んでいないはずのゴールに向かっているのかもしれない、という自覚があるのなら、
あなたはいつでも、選択できる可能性を持っている。
その事を忘れないで欲しいなと。
今すぐ別の電車に飛び乗って、違う景色を見に行くことは可能なんです。
卒業を迎えた娘に、私は私の親が準備してくれたような「まっとうな」道の選択肢は与えてあげられないかもしれないけれど、
彼女がやりたいと思う事は、試してみればいいよ、と送り出してはあげられる。
失敗したとしても、若ければいつでもやり直せるし、
そこから学べることは沢山あるし、
可能性は無限にあるということを、体験してほしい。
人生は自分で創るもの。
そのクリエイションの楽しさを、味わってほしい。
私が占いのような、手相や人相、
アカシックリーディングをするうえでお伝えしたい事の一つは、
私たちは無限の可能性を表現する、一人一人が素晴らしい存在なんだという事。
手のひらや顔に、あなたがこれまで選んだ道筋のデータや、ある程度予測可能な未来の情報というものは記されています。
遺伝や環境など、変更のできにくい要因も確かにあります。
でも、私たちが生きている限り、生命のある存在としてある限り、
そのデータは固定したものでなく、
生きたデータとして絶えず更新されているものです。
アカシックの情報から、魂の旅路の一部を覗いてみる体験の意味は、
私たちの人生は、魂の無限の可能性を表現する、一つのシナリオだと気づくという事。
一人一人が脚本家であり、演者であり、そして観客でもある。
私たちは壮大な宇宙という劇場で、それぞれに沢山のドラマを体験し、永遠の時間の中で遊び、ありとあらゆる感情を味わう。
そしてそれは、宇宙の一つの大いなる無限のストーリーの、また一部である事を知り、
あらゆる可能性と自由の中で、自分の魂の表現を、すべての存在と共にクリエイトしていると分かれば、
どんなドラマを体験したいのかは、自分次第なんだということに気づく事ができます。
復活祭
復活祭
生き返るのは、キリストだけではありません。
私たちの魂が永遠であるからこそ、死という扉を通り抜けても、また次のストーリーは続くのです。
キリストの復活の物語は、そのことを私たちの魂へのメッセージとして、集合的無意識に刻みこんでくれたものでもあります。
自分のハートの振動を感じ
その真実を素直に表現することを自分に許せば
永遠の魂は本来の輝きを取り戻し
生と死、時空を超えた
私たち一人一人の魂の旅路のすべてを、愛する事ができるでしょう🌠
藤井風さん『旅路』より
僕らはまだ先の長い旅の中で
誰かを愛したり 忘れたり
色々あるけど
いつの間にかこの日さえも懐かしんで
全てを笑うだろう
全てを愛すだろう
